犠牲って言葉、めちゃ違和感

犠牲って言葉、めちゃ違和感

いつもありがとうございます。
起業家コンサルタントの鈴木英広です。

 

土曜日に勉強会があるのでその前に

>勉強会でこういう話が聞きたいなどリクエストいただければ
>できるだけそこにお応えしようと思います。

と投げかけたら

 

>稼げるようになりたくて何を犠牲にしたか。
>詳しくお聞きして自分と比較したいです。

という内容の返信をいただきまして。

 

すかさず、私にはその感覚がないですねー。と返信していました。

 

前にもちょろっと書いたことはあるのですが

自分が選択してそれを良しとして
望んでそうしているにも関わらず

なぜか 犠牲にして って表現しちゃう人がいるのですが、これずっとずっと違和感があります。

 

もう1度書きますが、

“犠牲” ではなく、 “自分で(が)選択して” やってきた(いる)だけじゃないの?と。

 

 

あれ、私だけと思ったので、試しに起業家仲間にチャットして聞いてみたら

>犠牲にしてるとはこれっぽっちも思ったことはないですね。

って返ってきて、ああそうですよねと。

 

もちろん、私から投げかけて聞いているので空気を読んで返信してくれた可能性もありますけど、おそらく本音なのでしょう。

 

 

自分の理解や言葉の使い方が間違っているのかなと、念のため犠牲という言葉を調べてみました。

 

「ある目的のために損失となることをいとわず、自分の生命や大切なものをささげること。」

生贄という言葉も同時にヒットしました。

 

仮にですが、冒頭で書いた方のように副業でインターネットビジネスをして稼ぐというのが、ここで言う ある目的 だとすると、少なくとも私は自分の生命を捧げたことはないです。(死んでないですからね)

 

大切なものを捧げるという部分も

・学びに対してお金を使った(投資した)
・ビジネスをしてお金を稼ぐために使えるだけのありったけの時間を投資した

というのはしてきましたけど

 

どちらも捧げてきたっていう感覚もなければ、損失となるとも思ったこともないので、やっぱり違和感があるんです。(損失になると思っていないので、そもそも厭わないというのの以前の話です)

 

 

私の副業時代の経験から言えば、

・睡眠
・会社から自宅に帰ってからの余暇時間
・会社の飲み会(社内の人間関係?)
・休日ゆったり過ごす時間
・(貯金?)

くらいなのでしょうが、

 

どうでもいいとまで思っていたかはあれですけど、冷静に考えれば、そこまで大切なものってあるかって話ですし、確実に損失とは思ってなかったです。

 

当時と違っていまであればですよ、

家族との時間、娘と過ごす時間が大切なものですが

 

であれば、

損失となることは厭わず ではなく

私はその部分でしたら 確実に厭う ので、そこは捧げたくないし、捧げないです。

 

となると犠牲って言葉からずれるんですよね。

 

「ある目的のために損失となることをいとわず、自分の生命や大切なものをささげること。」

 

いま強引に思い浮かべるとすると、

家族の命を救うために自分の命を捧げる
(自分が生贄になれば、家族が救える など)

ですかね。

 

ただ、これも言葉の意味からすると当てはまるのでしょうが(家族が助かるのなら、自分の生命がなくなることは厭わないので)、前述した通り、自分がそれを望んで選択するのなら犠牲って言わないというスタンスなので、やっぱり当てはまらないのかなと。

 

その場に立ったことがないから言い切れはしませんが。

 

 

というわけで冒頭に戻りますけど、私の中では

犠牲にする

「私にはその感覚がないですねー」

なんです。

 

もっと言うと、、、

 

そもそも犠牲にするとか言ってるから稼げないんじゃないのと思ったりもしますしね。(厳しすぎですかね)

 

私と違って犠牲という言葉を使うのであれば、犠牲にするとか言ってるくらいなら、やらない、しないほうがいいんじゃないの? と思いますよ。

 

 

今日はここまでー。

 

【一言】;

友人のメルマガを読んでいて、「我以外皆我師」という言葉が紹介されていました。

 

意味としては

自分以外は全て、それが”人”であっても、”事”であっても、自分に何かを教えてくれている先生だ

ってことですが、まさにですよね。

 

参考;結婚している男性は読んでください(関連記事)

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